「南京虐殺」捏造に利用される中国爆撃事件:第二次上海事変


・第二次上海事変
1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦
であるが国民軍は日本軍陣地への戦線布告無しの射撃だけでなく租界や市街を爆撃した。

8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者




第二次上海事変に関しては ”歴オタたちが本気で調べる近代史” ブログさんが徹底検証しているので参考に。

歴オタたちが本気で調べる近代史 1.

歴オタ・ブログ 2

歴オタ・ブログ 3

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歴オタ・ブログ 5


被害全体の様相はこんな感じ
DDwIkBlUwAAjuhF.jpg



こちらは動画版。米国人Mark Moodyによる撮影。
1937年第二次上海事変 8月23日上海・南京路シンシア百貨店(先施公司)への中国軍機による爆撃後の被害  
↓特に解説は付いていない。
   南カリフォルニア大学USCアーカイブス


ほぼ同じ動画。解説は事実に即しておりほぼ正確。
Chinese military's air-raid on Shanghai -- August 14, 1937, British News "Bloody Saturday" by KMT
   

↑は英国人ジャーナリストRalph Shawによる記録 
”爆弾が落ちたエドワード・セブンズ通り(延安東路〜延安中路) の惨状はもっと酷かった。中国の劇場地区で、露店エリア、舗道のサイドショー、いつも観光客で賑わっていた所だ。大虐殺はひどかった。それが上海地域で中国が始めた攻撃の最後のものだった。”

この上海事変全体の様相については、仏エクス・マルセイユ大学、近代中国史専門のChristian Henriot教授の論文がしっかり史実に沿っており正確に描写していると思えた。
論文タイトル [War and the death en masse of civilians]『戦争と民間人の大量死』
支那事変当初、民間人「虐殺」したのは中国軍だった。
”On the first day of the war, Shanghai experienced its highest civilian war casualty. Worse, the Chinese pilots had killed their own people.” 
   上海事件論文へのリンク
 
スクリーンショット (2309)
スクリーンショット (2310)
  (手直しはしているが手抜きの機械翻訳で悪しからず)





ここからは「南京虐殺」捏造に関連して。
国内ではウソがばれるからか使われる事はほぼ無いようだが、中国メディアだけでなく海外のネット上・メディア、あちこちで南京として使われている映像・画像

"Bloody Saturday" bombings by the Chinese military, Not of Nanking's. 
   スクリーンショット (1749) - コピー
   英ブリストル大学アーカイブス より

これも中国軍による上海爆撃被害の様子だが、海外のネット・メディアでは「南京虐殺」とされ頻出している。

他にも、こうやって「南京虐殺」だとして動画に挿入されることが多いシナ人負傷者の映像。
   スクリーンショット (358)
                 ⇓
が、実際には上海事変での様子。左の一部を切り取るつもりだった?何のために??   
   スクリーンショット (2130)
    ブリストル大・資料画像 

これを撮影したのはMalcolm Rosholt、アメリカ人ジャーナリスト。1937年まで上海取材。1943年から2年間は中国で情報将校、フライングタイガース指揮官シェンノート付き連絡将校であった人物。





凄惨な画像ばかりになるので、息抜きおまけとしてこんなのを。


1937年支那事変開始後、上海にて。
日本軍人と米アジア艦隊ハリー・ヤーネル提督。 
Admiral Harry Ervin Yarnell with Japanese soldiers,1937 Shanghai
Admiral Harry Ervin Yarnell with Japanese soldiers, Jessfield Railway Bridge, Shanghai


Japanese soldier lighting cigarette of American officer, Jessfield Railway Bridge, Shanghai in 1937 
DDwEfaqUQAANss3.jpg




関東大震災惨状写真が「南京虐殺」に

捏造「南京虐殺」写真でも最悪の部類。

新華社ツイッター記事より

・1枚目
スクリーンショット (2266) 
 「衝撃!戦時中日本の南京での暴虐古写真が公開」
中国の一市民が発見して南京市に寄贈したという設定らしい。

 


実際は 1923年関東大震災 
Photo of '1923 Great Kanto earthquake' victims 被災の写真だ・・
内外の公文書館に保存されている。

スクリーンショット (2265)
関東大震災・吉原の惨状 
※From the Great Kanto Earthquake Japan of 1923, courtesy of the UHM Library Asia Collection 
  「ハワイ大学マノア校図書館アジアコレクション1923年関東大震災写真集画像」より

同じパターンでこれも。
・2枚目
スクリーンショット (1671)

そして実際は関東大震災の惨状写真である。
スクリーンショット (1667)
   被服廠跡

しかも新華網がアップしているアルバム写真の方には「南京郊外に支那人死体(だった?)」と説明まで付けられている。
スクリーンショット (2264) - コピー



こちらも同じパターン
・3枚目
スクリーンショット (1666)

   Great Kanto Earthquake Japan, September 1923 吉原
DQwHaCCUIAAjSDF.jpg
  (この写真は「朝鮮人虐殺」だの他にも流用されているらしい)

これも中国側捏造アルバムでは「揚子江沿いの支那人死体」と。
   スクリーンショット (2263) - コピー


つまり中国が「南京大虐殺」らしき大量虐殺に見える写真を出そうと思えば、大震災惨状など全く無関係のものを使うしかないわけだ。
(他にも南京として中国が出している無関係な凄惨写真の流用があるが今後また色々挙げていきます)



参照:資料へのリンク
  ハワイ大学マノア校図書館アジアコレクション

  東京都立図書館

  デューク大学 digital dipository















731部隊人体実験の写真は実は済南事件(公文書の証拠あり)

海外で「731部隊の戦争犯罪・生体実験」と言えば大抵出て来る画像。

スクリーンショット (1499)
(Not of 'Unit 731's war crime, Autopsies of Japanese victims killed in the Jinan Incident in 1928.)

しかしこれは実際には1928年『済南事件』の犠牲者、日本人である。
その検死写真がなぜか日本軍の犯罪とされ世界に出回っている。
つまり加害者と犠牲者が逆転しているのだ。

以下、アジア歴史資料センターに当時のままの文書と写真。

   スクリーンショット (1085)


  スクリーンショット (1478)

済南に於ける邦人惨殺死体の写真送付の件

済南事件邦人惨殺写真

支那南軍の済南日本人墓地凌辱に関する件

済南事件とはーー 済南事件 wiki

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スクリーンショット (214)


ウソなのに、ご丁寧にこんな画まで作ってるケースも。
スクリーンショット (1481)

 
こんな事はもう止めさせねばならない。




「731部隊人体実験」とされる写真、実際は清国時代の肺ペスト犠牲者

戦前日本軍がやったものとされて、凄惨な画像が世界中に拡散しているが、
殆どは中国・朝鮮・ロシアでの全く別の事件や紛争のものです。

 (凄惨画像あり、閲覧注意) 


「731部隊による生体実験の跡」とされる写真。
スクリーンショット (1650)
"1910s Plague victims in Manchuria-Qing dynasty" Not of 'War crimes of Unit 731'.

実際には1910-1911年、清朝末期の満州に拡がった肺ペストの犠牲者。
 ↓証拠となる当時のアルバム (17ページ目)
 ロシア語の疫病関係アルバム

スクリーンショット (81)

日本とロシア帝国はペスト対策を実施。清朝政府は1911年、奉天で国際ペスト会議(奉天国際鼠疫会議)を開き、日露に限らずアメリカ合衆国やメキシコ、英・独・仏・伊・蘭・墺など数多くの外国代表をその会議に招くことで日露両国の影響力の低減をはかった。これは、帝国主義のもと、感染症とその対策が政治問題化した好例である。

 


Manchurian plague, 1910-11
IAIN MEIKLEJOHN
In the autumn of 1910, the press in China began to report that a rare and deadly pneumonic plague had reached Harbin in the extreme Northeast of China, then known as Manchuria. Though confined largely to China’s Northeastern provinces, cases were reported sporadically throughout the empire, in Tianjin, Beijing and along the Beijing-Hankou railway line stretching down into central China, reflecting the scale of the epidemic. It is difficult to attain precise statistics about the death toll of the plague; however reports suggest that between 50,000 and 60,000 people died, with an unprecedented mortality rate of 100 per cent.

1910年秋、中国(清国)の報道機関は、希で致命的な肺ペストが満洲としても知られるシナ東北部ハルビンに到来したと報告し始めた。 大部分は中国北東部の州に限定されていたが、天津、北京、中国中部に広がる北京 - 漢江線に沿って散発的に症例が報告された。 疫病の死亡者数について正確な統計を得ることは困難だが、5万〜6万人の人々が死亡、死亡率は100%で前例のないものであると報告書では示唆されている。


    詳細(英文)









再開

ある時から反日側からの嫌がらせコメントが連続して入るようになり、しばらくブログ自体休止しておりました。

歴史関係だけ少しづつ纏めていければと思っていますが、さて続けられるものか、どうなることやら。