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731部隊ニセ写真・そのソース元


「731部隊による人体実験写真」とされているが、実際には1910-1911年満洲でのペスト流行時の検死写真である例。

明治四十三四年南滿州「ペスト」流行誌附録寫眞帖 1912年刊 
 
 p67、68、101など

ロシアにも同じ写真が存在している
  ロシア側写真資料


 (中途ですが後日続きを)





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平穏な南京市内 



2017年9月 産経ニュースより 
 南京事件1カ月後の姿を写した写真

 写真を撮ったのは、満州電信電話の技術者だった杉山友勝さん(昭和62年、81歳で死去)。メモによれば、13年元旦から関東軍の指示で上海・南京地区の通信施設の防空設備視察のために同僚3人と出張。南京へは陥落(12年12月13日)から1カ月弱の13年1月7~10日に訪れている。
 写真は、中国・国民党軍が南京退却時に残していった放送スタジオ「中央党部内演奏所」や北極閣(気象天文台)の地下に置かれていた「軍通信司令部」など放送・通信施設を中心に撮影。また、欧米人が国際委員会を組織し南京市民が避難した安全区(難民区)内や同地区以外の城内、城外の街や市民の様子を写したものなど数十枚に及ぶ。



記事にある遠景写真の方、
 DKsv027XUAAENW7 - コピー

黄色〇で囲んだ部分が他の南京写真と一致。
↓アサヒグラフに掲載された、「北極閣」からの撮影(赤丸部分が上の写真と同じ)。
期日は1938年1月11日となっている。

     IMG_1911 - コピー - コピー
     (クリックで拡大して下さい)
こちらの写真は1938年アサヒグラフに掲載されたもの。
その解説部分→ IMG_1911 - コピー (2)

地図で見ると 6W_0xVXg - コピー (2) - コピー
「北極閣」は南京城壁内の北東辺りにある。

産経ニュースで報道された写真も、当時のアサヒグラフ報道写真も撮影はほぼ同じ場所、同じ時期と思われる。
産経の方は『満州電信電話の技術者だった杉山友勝さんはーー13年1月7~10日に訪れている』とある。

※いわゆる「南京虐殺」とされている事案は、中国側の主張では12月13日攻略以降、翌1938年2月中旬頃まで続いたとされている。
(東京裁判の検察側最終論告には、「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万」と)
南京攻略にあたった中支那方面軍ー上海派遣軍・第10軍含むーが解体され、新たに中支派遣軍が編成されたのが1938年2月14日、その再編によって「非道行為は一応止んだ」としているためだ。
同時に中国人も欧米第三者国人の往来も可能になった。(英国とドイツの大使館職員は1月10日既に戻っている)

つまりこれら写真にある1月10日前後というのは「南京虐殺」最中とされている時期。



ところでこのドーム状のものは何かと言うと、南京城壁内・中央大学(現・東南大学)講堂のドーム屋根。
この地域を戦前、撮影した人がいる。
先日書いたエントリー  ヘッダ・モリソン写真
モリソン女史が1944年に撮影した中央大学遠景。 312100035154fa4084e5_2018062301353064b.jpg
 中央辺りに6角形か8角形くらいのドーム屋根が見えている。



こういう写真群が「南京事件・虐殺」の有無に関係するかは分からない。
中国側は南京城内でもあちこちで多数の「虐殺」があったと主張しているが、この種の写真どれを見ても街並みが崩壊しているようにも見えないし、(広大な地域ではあっても)死体累々という様子は感じ取れない。





欧米各国ジャーナリストが取材した支那事変 ヘッダ・モリソン

各国に残されている戦前中国の写真庫
その中でも日本軍が関係した時代のものを。

中国歴史写真庫  英国ブリストル大学アーカイブス

Hedda Morrison ヘッダ・モリソン写真 ハーバード大アーカイブス (941枚あるので重いです。各タイトルをクリックすると拡大画像が)

ヘッダ・モリソン (Hedda Morrison 中国語名・海達·莫理循 1908-1991)は1933年~1946年まで中国各地を廻り、28冊の写真集を残している。
Photo_of_Hedda_Morrison.jpg

    スクリーンショット (1747)
1944年には南京に滞在している。つまり汪兆銘政権時代であり、日本軍も駐留していた。

ヘッダ・モリソン・コレクション  英ブリストル大学 Historical Photograghs of China
 
中国語サイトだが、こちらでも主要なものが纏めて見られます。
中国語サイト


ここから南京と記載あるものを何枚かアップしておきます。

     スクリーンショット (2345)
   
     312100035154fa4084e5.jpg

     スクリーンショット (2347)

     スクリーンショット (2348)

     スクリーンショット (2341)

     スクリーンショット (2342)



  


「日華親善」

「日本軍邪悪伝説」が世界に拡散されている現状で、それでも日本軍将兵とシナ民衆との友好風景、日本軍と欧米人や各国軍との接触風景など写真が残されている。


★ 英国兵と握手する日本兵 gettyimageへのリンク
After the end of the Battle of Shanghai: Japanese soldiers in the embattled district of Zhabei shaking hands with British soldiers of the International Zone over a barbed wire barrier - mid-November 1937  との解説が。


★ CRHeatqVEAAqdqG.jpg
Japanese soldier playing Shakuhachi during the War.
Huzhou, Zhejiang in China Jan. 26, 1938
尺八を吹く日本兵 浙江省湖州


★ COEUBZeUAAYl8GF.jpg
Japanese soldiers with Chinese peasants. 
年代不明 シナ農民と共に日本兵 
  


★ CQAIipKUwAE_TAY.jpg
A Japanese soldier helps Chinese woman to make dinner with fish from Lake Tai. (Huzhou, Dec. 28, 1937)
浙江省湖州


★ COETlTiUYAAlNJ2.jpg 
Chinese woman pouring tea for Japanese soldiers.
上海事変(1937年8月~)最中と思われる


★ COETMBTU8AARHj5.jpg
Chinese volunteer lighting the cigarettes of two Japanese soldiers.
日本軍側についた中国人か


CM3KVE3U8AIvi3T.jpg
場所・年代不明 シナ人の子供と



★ Nanking just after the fall 南京陥落直後 flickerへのリンク
 


★ ebayに出品されていた日本兵のアルバムより2枚
出品側解説「驚いたことに、流血や死の光景が無い。日本の中国占領の歴史を知らなければ、これを見た人は日本兵と中国人の間に平和と和合があったとの結論に達するかもしれない」
   ebayへのリンク 

    CznC7AnVEAAazNI.jpg
    『南京風景 昭和12年陥落当時』と

    CznC-qzUcAAt8_G.jpg
    『路傍で食う』
     
     





「南京虐殺」捏造に利用される中国爆撃事件:第二次上海事変


・第二次上海事変
1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦
であるが国民軍は日本軍陣地への戦線布告無しの射撃だけでなく租界や市街を爆撃した。

8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民間人3000人以上の死傷者




第二次上海事変に関しては ”歴オタたちが本気で調べる近代史” ブログさんが徹底検証しているので参考に。

歴オタたちが本気で調べる近代史 1.

歴オタ・ブログ 2

歴オタ・ブログ 3

歴オタ・ブログ 4

歴オタ・ブログ 5


被害全体の様相はこんな感じ
DDwIkBlUwAAjuhF.jpg



こちらは動画版。米国人Mark Moodyによる撮影。
1937年第二次上海事変 8月23日上海・南京路シンシア百貨店(先施公司)への中国軍機による爆撃後の被害  
↓特に解説は付いていない。
   南カリフォルニア大学USCアーカイブス


ほぼ同じ動画。解説は事実に即しておりほぼ正確。
Chinese military's air-raid on Shanghai -- August 14, 1937, British News "Bloody Saturday" by KMT
   

↑は英国人ジャーナリストRalph Shawによる記録 
”爆弾が落ちたエドワード・セブンズ通り(延安東路〜延安中路) の惨状はもっと酷かった。中国の劇場地区で、露店エリア、舗道のサイドショー、いつも観光客で賑わっていた所だ。大虐殺はひどかった。それが上海地域で中国が始めた攻撃の最後のものだった。”

この上海事変全体の様相については、仏エクス・マルセイユ大学、近代中国史専門のChristian Henriot教授の論文がしっかり史実に沿っており正確に描写していると思えた。
論文タイトル [War and the death en masse of civilians]『戦争と民間人の大量死』
支那事変当初、民間人「虐殺」したのは中国軍だった。
”On the first day of the war, Shanghai experienced its highest civilian war casualty. Worse, the Chinese pilots had killed their own people.” 
   上海事件論文へのリンク
 
スクリーンショット (2309)
スクリーンショット (2310)
  (手直しはしているが手抜きの機械翻訳で悪しからず)





ここからは「南京虐殺」捏造に関連して。
国内ではウソがばれるからか使われる事はほぼ無いようだが、中国メディアだけでなく海外のネット上・メディア、あちこちで南京として使われている映像・画像

"Bloody Saturday" bombings by the Chinese military, Not of Nanking's. 
   スクリーンショット (1749) - コピー
   英ブリストル大学アーカイブス より

これも中国軍による上海爆撃被害の様子だが、海外のネット・メディアでは「南京虐殺」とされ頻出している。

他にも、こうやって「南京虐殺」だとして動画に挿入されることが多いシナ人負傷者の映像。
   スクリーンショット (358)
                 ⇓
が、実際には上海事変での様子。左の一部を切り取るつもりだった?何のために??   
   スクリーンショット (2130)
    ブリストル大・資料画像 

これを撮影したのはMalcolm Rosholt、アメリカ人ジャーナリスト。1937年まで上海取材。1943年から2年間は中国で情報将校、フライングタイガース指揮官シェンノート付き連絡将校であった人物。





凄惨な画像ばかりになるので、息抜きおまけとしてこんなのを。


1937年支那事変開始後、上海にて。
日本軍人と米アジア艦隊ハリー・ヤーネル提督。 
Admiral Harry Ervin Yarnell with Japanese soldiers,1937 Shanghai
Admiral Harry Ervin Yarnell with Japanese soldiers, Jessfield Railway Bridge, Shanghai


Japanese soldier lighting cigarette of American officer, Jessfield Railway Bridge, Shanghai in 1937 
DDwEfaqUQAANss3.jpg




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