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「観音浄土に船出した人びと 熊野と補陀落渡海」

今日の 本は

観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海 (歴史文化ライブラリー)観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海 (歴史文化ライブラリー)
(2008/02)
根井 浄

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「即身仏」は知っていたが「補陀落渡海(ふだらくとかい)」なるものは知らなかった。

補陀落とは何か
=====
観音菩薩が住む南方の浄土=補陀落世界を目指し、現身を舟形の棺に納めて大海原に船出した人びとがいた。宣教師の記録や絵画史料、渡海船の構造から、「南方往生」と補陀落渡海の世界観を解き明かす。
=====

熊野だけでなく伊予国、和泉国あるいは室戸岬、九州や日本海側でも行なわれていたらしい。
「船出」とは言え、実質的には自殺行為だ。

「熊野年代記古写」に9世紀~18世紀前半まで20人の渡海上人が書かれており、僧侶を中心に追従する信者も渡海船周囲で入水していたようだ。「同行16人」などの記録が残っている。
それら追従者が身体に錘となる石を括りつけ海中に入る「渡海」と、渡海用に仕立てられた船の上に外からクギを打ちつけ光も通さない小部屋を作り篭ったまま「浄土」を目指す方式とがある。
数日分の食糧は入れておくが、小部屋は身体一つ動かせない箱であって、あとは潮に流されるまま。
あるいは元から船底に孔を作っておき栓を抜けば沈んでいく・・
当時これを見聞した欧州からの宣教師らは「悪魔に礼拝を為す」と悪魔の所業のように書いている。

こんな想像するに苦しい方法、即身仏とどっちがラクだろうと考えたが、浄土や成仏とはそういう単純安直な物ではありません・・

ただ一人、16世紀の日秀上人という僧侶は那智海岸から渡海船に乗って、沖縄東部の海岸に漂着した。
当地に観音寺を建て、その後薩摩に渡り島津氏の庇護の下、寺社再興に寄与したと。

そういう人も居たと知るとちょっと安心するのは凡人なるが故。

この渡海船の構造だが、僧侶が入る密閉小屋の四方には鳥居が立てられる。
本書説明に拠ると「四門は現今の葬墓習俗としての殯(もがり)に原型がありーーーー四門について、発心門、修行門、菩提門、涅槃門と、火葬の火屋の四方の額を打つ、と説明するように四門はまた葬場における装置を示すものであった」
大きな鳥居に囲まれた、この形の渡海船の画(那智参詣曼荼羅)が載っているが、見るからにコチラ側でない世界、触ってはいけない世界だと感じられる。

その(もがり)とは何ぞや?と調べてみると
=====
殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。
=====
これまた壮絶な光景・・

この四門に見覚えがあるなと思ったら、身内の葬儀の時、墓所が整うまでお骨を収めて置く櫓を作るのだが、その周囲四方に確かに鳥居型のシールを張っていた。
仏式(真言宗)なのに何で鳥居?今も神仏習合?と不思議だったが、これのことだったか。
一種の結界なのか。
「平家物語」二条天皇崩御の際の墓送り作法にこれがあったというから、かなり古くからの風習だ。
この本を読まなかったらお墓の鳥居やもがりを知らないままだったなあ。





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コメント

かつて、浄土というのはどこまで輝いていたんでしょう。
生きることが厳しいものであるほど、浄土は輝きをましたんでしょうね。

>イーグルスさん

(返答遅くて失礼しました)

この本では僧侶でない同行して「浄土」を目指した一般庶民の方にも興味が湧きました。
生きることが厳しい時代な一方で、覚悟を決めた諦観へ至ることが出来る、それが現代人には羨ましい気もします。管に繋がれて死ぬに死ねない状況も生まれる現代日本ですし・・

続けてごめんなさい

連続で失礼します
私も補陀落渡海、大変興味を持っていました。これがテーマになった推理小説もありました。それから私は「熊野」に凝っていたことがあるんです。
でも今回あなたの文章を読んで、また改めて考えると、日本人は死を儀式化して美化する傾向があることがわかりますね。死に酔う、というより、本質が暗いのではないかと。ただ、釘を外しておいて、いざとなったら逃げ出した人もたくさんいたとか。高僧はさすがにそんなことはしませんが。考えようによっては文化的に高度に洗練された自殺ですね。否、信仰というべきか。

>ブリュッセルさま

コメントありがとうございます。
連続でのコメント大歓迎でございますi-179

本質が暗い、自殺・・日本人は他罰でなく自罰へ向かいがちなんでしょうか・・
現在も自殺数が多いというのも。
自罰は自虐へも繋がり、自虐史観にも嵌りやすいのかも。
(自虐史は実は日本人同士として見ると他虐である、という人も居ますが)

逃げ出したっていうのは何か人間臭くていいですね。もしかして大海へ出てみたいだけの冒険野郎も紛れ込んでいたりして。

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